パングラムの現状

パングラムの意義を正しく理解していないと思しき作品が散見されるのは、いち作り手として気がかりです。
誤ったとり組み方を批判的に論じます。

ヘンテコな日本語製造機

パングラムは、いうなれば「ヘンテコな日本語製造機」です。理由が「あ~ん全てのかなを過不足なく用いる」ルールにあることはいうまでもありません。
ことばの実態に反したルールが、非常識的な語句の組み合わせを自動的に量産してくれるのです。
それゆえこのルールに身をゆだねれば、”なにこの変な日本語?” と思わず自分でも苦笑する、まともに意味をなさない作品がすぐにでき上がります。

不自然な日本語になるよう条件設定されたパングラムということばのゲームにあって、不自然な日本語にすることほど容易なことはない。
同語反復のごとく明らかでしょう。

具体例

実例として、つぎの作品をご覧ください。
吠えろ巷で 鳥が呼ぶ
  ほえろちまたで とりがよぶ
愛すべき者 花開く
  あいすべきもの はなひらく
我や寂しげ 夢胸に
  われやさみしげ ゆめむねに
骨を押せ 運塗るぞ
  こつをおせ うんぬるぞ

ひとまず順に見ていくと、1・2句は一見悪くなさそうです。でも、巷で鳥が呼ぶとなぜ吠えなければならないのか、因果関係が分かりません。このあとの展開を受けても不明です。
3・4句は「愛すべき者の夢――努力してきたこと――が花開く」と理解できます。「愛する者」でなく「愛すべき者」であるところに引っかかりは覚えるものの、まずまず穏当な文句といえるでしょう。「愛すべき者」を、桜や梅や各種花の比喩とするのもいいかもしれません。
5句「我や寂しげ」の「や」は文語法ですが、詩歌であれば現代口語でもまま使用されると思います。ただ、どうして我は寂しげなのか、前後の文脈から根拠を見出せません。つづく6句の「夢胸に」とも整合しないようです。
なお、「夢胸に」までは、句単位で見るかぎりは表現にも意味にもとりたてて不自然な点はないでしょう。

最後の7・8句は、いかにも余ったかなを寄せ集めて作ったような、苦し紛れの文句です。
7句「骨を押せ」は表記としては問題ないけれど、「骨」を「こつ」と読ませているのがマズい。「ほね」でないと意味が通らないでしょう。
また、8句「運塗るぞ」はすなわち「運を塗るぞ」ということですが、「運」と「塗る」はふつうセットで使う――共起する――語ではありません。文脈によってはあり得るにせよ、ここではまったくデタラメな表現です。

いかがでしょうか。
全体の字面をザッと見渡せば、なんとなく意味ありげな語句が並んでそれなりに情趣らしきものを感じられるかもしれません。
しかし、きちんと読んでいくと各句をとり結ぶ脈絡が――3句と4句以外に――なく、文意と呼べるものがないと分かります。
要するに語句がとりとめなく並んでいるだけで、通用する日本語としての体をなしていないということです。
ことばづかいにも難がありました。

もう1つ例示します。
犬とお散歩 楽しむも
  いぬとおさんぽ たのしむも
部屋着に加え スーツ売り
  へやぎにくわえ すーつうり
喜ぶハマチ 金を愛で
  よろこぶはまち かねをめで
ぜひ行け波 荒れる空
  ぜひゆけなみ あれるそら
一読して頓珍漢であり、ひらがなとカタカナと漢字で構成された日本語ではあっても、まるで意味を汲みとれません。
いちいち確かめるまでもないでしょう。

2つの作例は、どちらも私が試みに作ったものです。
両方とも短時間で苦もなく完成し、パングラムが「ヘンテコな日本語製造機」であると実証できました。

パングラムの現状

じつは、こういった作品がたびたび見られるのがパングラムの現状です。
なんの話をしているのか、なにをいわんとしているのかが把握できない。
率直に言語表現として支離滅裂、荒唐無稽なのです。
を押せ 運塗るぞ」といった滅茶苦茶な語法も典型的といえるでしょう。

作品を閲覧していると、とりあえずルールを守って語句を拾い出していき、あとはそのときの気分に任せ羅列した、そんな印象を受けます。
自身の試作過程を振り返っても、10数分であらかた出揃った語句を適当に調整、配置しておしまいでした。
いったい、ここではなにが行なわれているのでしょう。
私も体験したようにふつうの母語話者であれば容易くできることをし、しかも結果もたらされるのはろくに意味をなさない語句の連なりです。
こんなありさまでは、ことばを使用した頭脳ゲームというにほど遠い。
“ヘンテコな日本語がどんどんできるぞ、アハハ” と興がってみても同様です。

念のため確認しておくと、パングラムの目的は「あ~ん全てのかなを過不足なく用いる」ルールをただ満たすことではありません。
もとよりゲームの主眼がルールの順守にあるはずはなく、その目的はルールを前提にしかるべき目標をクリアすること。
ではパングラムの目標がなにかといえば、自然な日本語に整えることです。冒頭で述べたように、不自然な日本語にすることがもっとも簡単なのだから、その反対がもっとも難しく、それを目指すのが当然でしょう。
ということは、自然な表現-意味内容にまとめようという意志がおよそ感じられない作例のような作品は、パングラムの目的と真逆を向いていることになります。そのうえ、ことばのあるべき在り方とも正反対の姿をしている。

何事もてっとり早く答えを欲するファスト思考(志向)の風潮のなかでは、趣旨など顧慮せずゲームをすることもあるのでしょうか。
意思の疎通は図れず、情報は適切に伝達されず、私たちの日常~社会生活が混乱して立ち行かなくなる、そんな日本語ならざる日本語を作り出すことに違和感や疑念を抱くことはないのでしょうか。
とり組んでいてやりがいや楽しさが感じられるのでしょうか。
そもそも、どういう意図でパングラムに臨んでいるのでしょうか。
私にとって今回の実験的作成は、頭を働かせるでもなく漫然とかなを組み合わせて意味のないものを産出する、ひたすらに無意味な作業と時間でした。

奇妙な主張

ところで、この現状とリンクするように、パングラムには “自然な日本語でなくていい” という奇妙な主張が存在します。
文法的に間違っていたり語法がおかしかったり意味が通じなかったりしても、”かえってそこに面白みや趣きがある” と肯定的に捉えるというのです。
そう主張する何人かとは対話もしたけれど、なぜそんなことを述べ立てるのかが私には吞み込めませんでした。
これまで見てきたとおりパングラムは「ヘンテコな日本語製造機」であり、どんな理由を付けようが “自然な日本語でなくていい” と認めるや、このことば遊びはたわいもないゲームと化すからです。

主張者たちの作品は不自然なことばづかいを含んでいたり文意がちぐはぐだったりし、ときに主旨はおろか話題がなにかさえ伝わりません。
当人にも意味の分からないことがあるようで、私の読解力が足りないわけではなさそうです。
それにしても作り手自身が内容を理解できないとは、カオスな言語空間というほかないでしょう。
そして、繰り返し記しているように、また作例で証したように、そういったものを生み出すことがパングラムではなにより易しいのでした。
自分でも意味が判然とせぬままにことばを組み合わせ、それでいて “なかなかに興味深い” と感慨にふける(?)。しかも簡単にできる…。
一歩引いて冷静に眺めたとき、成熟した母語話者がなす言語行為として、いささか程度が低過ぎるのではないでしょうか。
付言すると、よく意味の分からないものや曖昧なものを、それがゆえになにやらすごいと感じ――たが――る心性は、誰もが多かれ少なかれもつものです。
しかしその原理上、パングラムはそうしたあやふやさを徹底して戒め、排除しなければなりません。

“自然な日本語でなくていい” と裏表のような、”平凡な内容ではつまらない” といった物言いも共通しています。
これもおかしな話で、パングラムにおいてさしあたりなにが難しいといって、平凡なことばづかい・文意にまとめ上げることほど難しいことはありません。
それがつまらないとはなんぞや、です。

加えて、”自分が満足できればいい” という言い方もなされます。
一般の詩文であれば、独自の表現をとことん追求するのもありでしょう。あからさまに不自然な日本語でも、本人が納得するならかまいません。
しかしながら、パングラムは一般の詩文と状況も目的も異にした、ことばのゲームです。明確な目標があり、評価基準があります。
だから常識を無視してことばを組み立ててはならないし、こじつけととられる恣意的解釈も許されません。パングラムでそれを許容すれば、私の作例はたとえば “ことばの秩序から脱け出して、白日夢のごとき世界を表現したのだ” と前向きに――都合よく――自己評価できるでしょう。「白日夢のごとき」の部分は、「奇想天外な」でも「茫漠たる」でも、あるいは「一風変わった」でも「面白おかしい」でも、はたまた「シュールレアリスム様の」でも、好きにいい表せる。極端にいうと、目をつぶってかなを当てずっぽうに並べたものでも “かなの1つ1つが楽しげに散りばめられて心地いい” などと評せてしまいます。いかようにも評価できるとなれば、作品の具体的な文言は実質的にどうだっていいわけです。もはやこうなると、上手い具合にいい繕う競い合いとでもいったふうで、滑稽なこと極まりないでしょう。
ゲームというのは、ある基準をもとに出来が客観的にジャッジされるものです。パングラムなら標準的な日本語として整っているほど評価が高く、そうでないほど低い。明快・明瞭なことばづかい・文意であるほど評価が高く、そうでないほど低い。
ゲームにおいては自分が満足しようとしまいと関係ありません。少なくとも、閉じられた自己満足に価値はないのです。

パングラムで “自然な日本語でなくていい” とする主張を、他のゲームに置き換えてみましょう。
たとえば囲碁で、対局者の1人が持ち石で盤面に絵を描き、”ルールを守っているから個人の自由だろう。平凡に打ってもつまらないし、主観的にはこのほうが勝つより難しい” と主張する。
たとえば麻雀で、役には存在しない仕方で牌を揃え、”ルールに従ったうえで、偶然性を活かして常識に囚われず牌を並べることに、己の感性が表現される。それをどう評価するかは人それぞれだ” と主張する。
たとえばテレビゲームのRPGで、”クリアは目標の1つに過ぎない。弱い敵を延々倒しつづけることにも劣らぬ味わいがある” と主張する。
これらのゲームに真剣に熱心にとり組んでいる人たちからすると、いずれも目的をはき違えた、非常に不可解で、不快で、不甲斐ない態度に映るのではないでしょうか。

とにもかくにも、”自然な日本語でなくていい” と心底から考えているのだとしたら、パングラムおよびことばに対する基本的な理解があまりに欠如しているといわざるを得ません。
パングラムのルールがなんのために存在しているのか、パングラムを一般の詩歌と混同してはいないか、ことばとは本来的にどういうものかなど、今一度思慮を巡らせるべきでしょう。
ただし、パングラムに慣れる準備運動、子どもや外国人学習者の語彙定着、高齢者の頭の体操、などを目的とする場合は例外です。

たほう、自然な日本語に整えられず不自然になってしまうのを正当化したい、自分の作品が客観的に評価されることから逃れたい、そういう心理機制が働いているのであれば、心情は推し量れます。不自然であると自覚しながら提示するのは、母語話者としてそれなりに抵抗を感じるもの。
でも、パングラムはあくまで特殊なルール下にあるゲームです。日本語一般の能力をテストされているわけではありません。たとえばクロスワードが解けないからといって、日本語力が不足しているとみなされることはないでしょう。
ゲームの常道を避けてごまかしたり茶化したりするのは、やはりとり組み方として間違っています。

なお、この節で述べてきたことは、パングラムで通常の言語規範から逸脱した表現、いわゆる詩的表現が成り立つ可能性を否定するものではありません。
とはいえ、詩的表現は基礎的なリテラシーがあってこそです。それなくして応用発展の詩的表現を描ける道理はないでしょう。
パングラムで挑みたいなら、まずは良識的な日本語に整った作品を50、100と作って示すことが必要です。

パングラムのユーモア

話のついでに、日本語としての不自然さをユーモアにした作品について触れておきたいと思います。
構造的にヘンテコな日本語になるパングラムを利用したお笑いは、たまの気分転換で楽しむぶんにはいいかもしれません。たとえば芸人のバカリズムさんが以前なさっていました。
もっとも、50弱のかなという限られた字数で突拍子もないおかしなことばの組み合わせを作っても、だいたい似たり寄ったりのパターンになり、いくつか見ると飽きてしまいます。バカリズムさんもそのことを認識されているから繰り返しネタにしないのでしょう。
また、そればかりでは自然な日本語に整えることができないと自ら告白していることにもなる。
無理のない日本語と認められるうえで笑いをもたらす表現が、パングラムにおける正統な(?)ユーモアです。

正しくとり組む

やや厳しい論調になりました。
自作するようになるまえから、パングラムの目的なんていわずもがなだと思っていたのが、ネット上の作品を閲覧するにつけ、また作り手の方とやりとりするにつけ、意外なほどちゃんと理解されていないと知り、少なからぬショックを受けているというのが真率な気持ちです。
マイナーであることが理由の一端かもしれないけれど、かりにもパングラムにとり組むのなら、ことばにいくらかでも関心があるはずでしょう。
にもかかわらず誤解・曲解がまかり通っている現状を、母語たる日本語を愛好し、その日本語とたいへん親和的なこのことば遊びに魅せられた者として、捨て置くことはできません。憂慮すべき事態であり、機会を見つけて非をはっきり断じておかねばならないと考えていました。
言語運用の観点からも、不自然な言語表現をそれと分かって能動的に作り出す行為にプラス面はなく、いたずらに繰り返せば正常な言語感覚が損なわれる恐れも懸念されます。とり組むことで言語能力が低劣化するのだとしたら、百害あって一利なしでしょう。

本稿の批判が当てはまるとお感じの方には、ぜひともとり組み方を改めていただきたい。
パングラムの目標は1つ、間然するところのない日本語に整えることです。そうでなければパングラムのルールに意味はなく、したがってパングラムにとり組む意味もありません(さきに挙げた例外を除く)。
パングラムは高度な言語ゲームであり、目標の達成には複雑かつ繊細なかなの操作が求められます。私が「かなパズル」と名づけたように、その様相はかなのパズルになぞらえることができ、46――文語は48――のかなを巧みに並べ替えて組み合わせ、ことばづかいから文意からくまなく整った詩文を形作るには、あくなき知的努力が必要です。
懸命にとり組んだ結果、力及ばず不自然さを帯びることがあるでしょう。でも、それは少しも恥ずかしいことではありません。ゲームに失敗はつきものだし、パングラムはそれだけ難解です。私も数え切れぬ失敗をしながらとり組んできました。このときに、”あえて一部を不自然にすることで表現上の効果を狙ったのだ” などと語ってしまうことこそが見苦しく恥ずべきことであるのは、もうお分かりいただけると思います。
不自然な箇所があれば言い訳をせず素直に認め、かなの組み合わせを改善すればいい。その改善が困難なわけですが、そこで悩みもがいて試行錯誤することが、頭脳ゲームの醍醐味にほかなりません。作成を重ねるうち、全てのかなをバランスよく布置する感覚も養われてきます。
そうやって徐々に習熟し、一字一句整った作品を1つでも多く形にしていく。それがパングラムの正しいとり組み方です。

なかには、”完璧に整えるのは難易度が高い。ある程度不自然になることは承知で、もっと気軽に楽しみたい” という方がいるかもしれません。
そういうとり組み方もあっていいと思います。
ただ、その場合でも自然な日本語に整える目標は最後まで見据えてください。さもないと妥協が妥協を呼び、内容は不自然さを増す一方でしょう。

日本人ならみなが知る、日本文化に深く根付いたことば「いろは」の由来となった歌を生み出したことば遊び、それがパングラムです。
その偉大さに敬意を払いながら、意義を過たずとり組まれることを願っています。

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