パングラムはゲーム

パングラムはことば遊びであり、ことば遊びとはすなわちことばによるゲームです。パングラムにとり組むならこのことをしっかり理解していなければなりません。

ことばのゲーム

パングラムは、回文などとともに「ことば遊び」と呼ばれているとおり、ことばのゲームです。
「あ~ん全てのかなを過不足なく用いる」パングラムにせよ「頭と尻のどちらからでもかなの並びを同じくする」回文にせよ、ふだんわたしたちが書いたり話したりすることばの運用実態とかけ離れており、いかにもゲーム性あるルールが設定されている。
目標はいずれとも、自然な日本語となるべくかなを整序すること、になります。
原理がジグソーパズルと似ていることから、私は日本語のパングラムを「かなパズル」と命名しましたが、この呼称はゲームらしさも伝わりやすいのではないでしょうか。

通常の詩歌や物語ではない

さて、パングラムはゲームですから、一般の詩歌や物語と性格を異にします。
50弱のかなで構成されるので、形式的には詩歌や物語になる場合が多いでしょう。また、広義にみればことば遊びは詩歌や物語と同じ文芸に属します。
しかし、一般の詩歌や物語をことば遊びとみなすことはふつうないし、いわんやゲームと捉えることなどありません。
両者は方向性が根本的に違うということです。

たとえば “かな50字程度で詩やちょっとしたお話を作ってみて” といわれたら、小学校の高学年生にもなれば難なくできます。あらかた自分が構想したとおりにまとめたのち、表現を推敲したり結構を工夫したりと、内容面の充実を図ることに意を注ぐでしょう。
いっぽう、使用するかなの分量は同じでもパングラムのルールが与えられると状況は一変、ことばづかいはおかしくなるわ筋は通らないわで、まるで勝手が利きません。そうしてとりとめのないヘンテコな日本語になってしまう。大人が試みても大差はなく、内容を磨き上げるどころではありません。
であるがゆえに、パングラムにおいては「ことばづかい・文意ともに最低限整えること」をいの一番に目指すわけです。
目的が一般の詩歌や物語と別物なのは明らかでしょう。

明確な評価基準

パングラムの目標を鑑みると、評価基準がはっきりしているのが分かります。
すなわち、日本語としての正(成)否です。
子どもや外国人学習者の作文について、ことばづかいが適切であるかや文意が妥当であるかをチェックするのと一緒だから、その評価は日本語の常識に則って下せばいい。
そして、ひと通り無難な表現-意味内容であると認められれば、十分に及第点です。

パングラムはゲームであってみれば、評価が客観的に下せるのは当然といえば当然でしょう。テレビゲームでもカードゲームでも、囲碁や将棋や麻雀でも、プレーヤーが好き勝手に評価の仕方を決めていては成立しません。
共通の基準のもとでみなが公平かつ公正に楽しみ競い合えるのがゲームだ、ということになるでしょうか。

より正確を期すると、ことばを扱っているため、ほかのゲームほどには厳密に評価できない場合もあります。ある表現が自然か不自然かで、母語話者同士でも見解の分かれることがあるでしょう。それでなくとも自然と不自然の境界線上をせめぎ合い、微妙な局面が生じやすいのがパングラムでした。
とはいえ、たいていは日本語の通念に沿っておおむね適否を判別できるし、早い話が誰からも文句の出ない水準で整えればいいだけのことです。

比較するに、一般の詩歌や物語は評価に客観的な基準を見出しにくい。
文学的な作品の評価には各人の価値観――主観的な好悪――が否が応でも作用するからです。
逆に全てを客観的な物差しで測れたら、その存在意義はなくなるでしょう。
してみると、一般の詩歌や物語に関しては、つまるところ「評価は人それぞれ」かもしれません。

基礎が問われる

パングラムを言語学的な観点から考えると、基礎的な部分に焦点があります。
一般の詩歌や物語において、「凡作」が誉めことばになるなんてあり得ません。
ところがパングラムにあっては、ありふれた、月並みの、凡庸な、といった形容が賛辞になる。
改めて述べますが、ことばづかいなり文意なりが不可解・不明瞭になるよう構造的に条件づけられたのがパングラムであり、だからこそ良識的に理解の得られる標準的な表現-意味内容に整えることが最大の困難であり、その達成に意義があるのです。
英語として平々凡々たる語法で、内容的にも見るべきところのない「The quick brown fox jumps over the lazy dog.」が模範例とされていることも、パングラムの趣旨が言語の基礎に置かれている証左といえるでしょう。

カギは技術

ただし、基礎力があれば完成させられるわけではないのがことば遊び、つまりことばのゲームたるゆえんです。
単純に基礎力だけで事足りるなら、パングラムは大半の母語話者にとって容易でしょう。
問われているのは基礎でも、そこへシンプルながら七面倒くさいルールがまぶされることで、複雑難解な頭脳ゲームと化すのでした。

ではパングラムの作成で求められるのはなにかといえば、「技術」という言い方が適当だと考えます。
あ〜ん46――文語は「ゐ、ゑ」を加えた48――コのパーツを組み合わせ、ことばづかいにも文意にも不具合のない整合的な日本語を形作ろうというのですから、その過程は多分に工作的であり、テクニカルな言語操作が不可欠です。
もっとも、優れた詩人や作家のように格別の表現力や斬新な創造力が必要ということではありません。日本語学者のような深い造詣も要りません。ここでの「テクニカルな言語操作」とは母語話者が有する平均的な知見をいかに巧みに、かつ徹底して活かし切るかであり、やはり基礎的なことが重要になります。
かりにパングラムで安直に趣きのある、あるいは捻りの利いた内容を描き出そうとしても、厳しいルールに振り回された単なるできそこないの日本語になるばかりでしょう。
一般の詩歌や物語が基本的なリテラシーのうえに成り立つように、パングラムにおいてもまずは全部のかなを無理なく無駄なくきっちり組み立てるたしかな技量が先決です。
ともあれ、技術が要となる点はゲーム的な特性が色濃いといえるのではないでしょうか。

ついでながら、語彙については豊富であるに越したことはなく、多ければ多いほど有効ですが、日本で生まれ育っていればとくに不足することはないと経験的に感じます。

勘・直感・閃き

もう1つ、パングラムに欠かせない大切な要素に言及しておかねばなりません。
いわゆる勘や直感や閃きといった潜在意識的な働きです。
たとえばサッカーをテーマに作ろうと「さっかー」「ぱす」「しゅーと」の3つを選び出したとして、その時点で整う可能性がゼロになることがあり得ます。かなの組み合わせ数は有限であり、残りのかなをどう組み合わせても自然な日本語にならないことが実質的には――その都度――決まっているからです。このままだと、天才的な言語感覚の持ち主でも絶対に整えられません。
しかしながら、かなの組み合わせ数が有限とはいえ、人間の顕在的な演算能力にとってあまりに厖大です。それら全てを算出して考量することなどできっこない。パングラムは合理的、論理的思考を積み重ねるだけでは解けないということです。
先の読めないなかでくっきり明瞭な日本語へと導くには、したがって勘や直感や閃きを織り交ぜながら、行きつ戻りつ試行錯誤していくしかありません。
純粋な技量のみでは必ずしも目標に到達できないところにも、換言すれば運や偶然のようなものが結果に影響を及ぼすところにも、ゲームらしさが表れているといえるでしょう。

目標を忘れず

本稿ではパングラムがゲームであることを踏まえつつ、主要な特徴について記してきました。
けっきょく、とり組むうえでなにをおいても重要なのは「自然な日本語に整える」目標をつねに自覚していることです。
この目標を放棄すると、パングラムをパングラムたらしめるルールは空洞化し、なんでもありの無法地帯となって難しさは立ち消え、頭脳ゲームとしての価値が見出せなくなります(回文も同様)。

目標を見据えて難関をさまざま乗り越えていくことに、ゲームの眼目があるのはいうまでもありません。
たとえばテレビゲームでも、クリアやハイスコアへ向けた苦難の道程が醍醐味のはずです。
結果が付いてくればもちろん嬉しいし、思うような結果にならなくてもその悔しさがさらなる向上へのモチベーションになる。
そういった諸々をひっくるめてゲームの魅力であり楽しみであり、それも明確な目標があってこそでしょう。

由々しきことに、難しさを回避しようと意識的・無意識的に目標を相対化する傾向が、パングラムにおいてまま見受けられます。要するに “自然な日本語でなくても構わない” という態度です。
ことば遊びがマイナーな文化だから許されることで、ほかのゲームだったら非難の的になるでしょう。
たとえ手慰みの戯れだとしても、ことばの本質に照らして好ましくありません。
看過できない問題であり、このことに関しては機を改めて論じるつもりです。

パングラムに挑むなら、くれぐれも目標から目を背けないでください。
「ことば遊び」という軽い呼び名に反して、パングラムは問答無用に難解です。「あ~ん全てのかなを過不足なく用いる」ルールは子どもにも分かりやすく、特別な知識も不要で、老若男女を問わず気楽にとり組めるけれど、じっさいにやってみるとちょっとやそっとのことでは歯が立ちません。
でも、上手くいかなかったらリセットして何度でもやり直せばいいこと。そういう気軽さが、ゲームならでというものでしょう。
パングラムにとり組むからには多少なりともことばに関心がおありだと思いますが、真摯に臨むことで日本語への理解が深まり、またその豊かさを実感できるという大きな副産物が伴います。
一途に目標を目指し、あらん限りの知恵を尽くしてチャレンジしましょう。

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