- 仏の斎相 目声澄み 肌光り 足陸に やをら踏む 稜威もて落ち居る 我え比へぬ 真似詮無き
- ほとけのゆさう めこゑすみ はだひかり あしろくに やをらふむ いつもておちゐる われえよそへぬ まねせんなき
仏のそなえる神聖なお姿の特徴。その目や発する声は澄み、肌は光を放ち、足は大きく平らでそっと大地を踏んでいる。尊厳をもって落ち着いている。私にはなぞらえるなどとてもできないことであるなぁ。真似ようとするなど仕方のないことであるなぁ。
仏の身体にそなわるとされる32の特徴、「三十二相」です。
本文の背景に、三十二相をすべて掲げました。いかんせんかなパズルで使えるのはかな48字なので全部を表現することはとてもできませんが、今回採り上げたものは少し色濃くしてあります。それらだけ名称を挙げておくと、目に関しては「真青眼相」、声は「梵声相」、肌の光は「金色相」および「丈光相」、足は「足下安平立相」。
「稜威もて落ち居る」は正確には三十二相のいずれにも当てはまらず、全体像を表現したものです。あえていうなら「上身獅子相」や「大直身相」が該当するでしょうか。
三十二相に興味を抱かれた方はネットで検索されてみてください。なお、名称や読み方については文献によって多少の違いが見られ、一義に定まらないところがあるようです。私は『仏像の見方・見分け方百科』(河原由雄監修、主婦と生活社、1995年)に拠りました。
扱うテーマのせいか、全体にやや難しそうな印象になりましたが、内容自体はシンプルです。まずは語法から順を追ってご説明していきましょう。
初句「仏の斎相」は「仏の相」が基本の形で、すなわち「仏の姿」のこと。そこに加わる「斎」は名詞に付く接頭語で、「清らかな、神聖な」という意味を付与する。だから初句を訳すと「仏の神聖なお姿」となります。
「目声澄み 肌光り」は「目・声が澄み、肌が光り」とそのままで、とくに説明の必要はないでしょう。
「足陸に やをら踏む」に関して、「陸」の意味は「平ら」。現代口語ではあまりなじみがありませんが、建築の分野で地面と水平な平らな屋根のことを「陸屋根」といいます。事務所やお店に比較的多く、民家でもときどき目にするのではないでしょうか。平らなことから派生したのか、「きちんとしているさま、まともであるさま」という意味もあり、こちらは「ろくでもない」や「ろくでなし」で使われるでしょう。話を戻すと、したがって「足陸に」とは上述した「足下安平立相」のことで、仏さまの足の裏は平らになっていて土踏まずがないそうな。アーチがないので意外とお疲れやすかったのかもしれません。また、「やをら」は現代の「やおら」と同じく「静かに」の意。
「稜威もて落ち居る」の「稜威」は「尊厳」というような意味です。「御」を付けて天皇の威厳を表す「御稜威」の語はご覧になったことがある方もみえるでしょうか。「もて」は「以て」。「落ち居る」はこれで一語で「落ち着いている」。以上をまとめてこの句を訳せば「尊厳をもって落ち着いている」となります。
最後の2句「我え比へぬ 真似詮無き」は、文法とともにご説明を。
さきに品詞分解しておくと、「我え比へぬ」は名詞「我」、副詞「え」、ハ行下二段動詞「比ふ」の未然形「比へ」、打ち消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」。つづいて「真似詮無き」は名詞「真似」、形容詞「詮無し」の連体形「詮無き」。「比ふ」の意味は「くらべる、かこつける」、「詮無し」は「しかたがない」です。いまでもときおり「せんないことだ」などと用いられますよね。
2句はいずれも連体形で終える形、いわゆる「体言止め」です。両方ともうしろの「こと」が省略されているとお考えください。体言止めは「~だなぁ」という余韻を添えるので、われわれ凡人が仏さまのご様子と比較したりそれを真似たりなどおこがましいしできるはずがないよなぁ、そんなしみじみとしたニュアンスを表現しているわけです。
ちなみに、体言止めは厳密には文末だけに使われるようですが、2句それぞれが余情をもった文末的な文句ということでご理解いただければと思います。
終わりに、「我え比へぬ」は「え~(打ち消しの語)」の形になっており、意味は「~できない」。古文に頻出のこの言い回し、現代では「えも言われ(言え)ぬ」にかろうじて見られます。
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