- かな全部でパズル 骨折りヘコみ やつれゆく 負けぬよ笑え ひたむきに 一路目指そう 文字のアートを
- かなぜんぶでぱずる ほねおりへこみ やつれゆく まけぬよわらえ ひたむきに いちろめざそう もじのあーとを
あ~んのかな全部で作るパズル。試行錯誤を重ね苦労しても行き詰まってヘコみ、やつれていく。でも負けないぞ、こういうときこそニッコリ笑って楽しく挑むのだ。ひたむきに一路目指そう、整然とした日本語表現が織りなされた「文字のアート」を。
かなパズルでかなパズルについて描きました。
いっぱんにパングラムと呼ばれることば遊びは世界のさまざまな言語で行なわれていますが、日本語によるパングラムを私は「かなパズル」と名付けています。かなパズルのトップページでも簡単に触れたその由来について、改めて詳しくご説明しましょう。
100ピースのジグソーパズルにとり組むことをご想像ください。各ピースに描かれた絵柄は1つ1つ違い、それらはフレームのなかのどこか1カ所でしか使うことができません。また、”97ピースでできた” とか “数えてみたら105ピースだった” といったことはあり得ず、使用するのはきっかり100ピースです。そして全てのピースがもれなく組み合わさってフレーム内に収まったとき、完成した図柄が現れる。
日本語に限らず、あらゆる言語におけるパングラムも基本的な原理は変わりません。各々の言語を構成するそれぞれ形が異なった一定数の文字――アルファベットならA、B、C、…、Zの26字――を過不足なく組み合わせることで、有意味な表現を作り出すわけです。
日本語の場合は五十音図にあるあ~んのかなが使われ、口語なら46コ、文語なら「ゐ」と「ゑ」を加えた48コを1つも余すことなく欠かすことなく組み合わせます。
そう、かなによるパズルだから、略してかなパズルです。
名称の理由はおおむね以上の通りですが、「パズル」を含めた理由はそれだけでなく、このことば遊びの目標を明らかにする意図も込めている点にご留意ください。
つまり、完成したパズルが隅から隅までくっきりクリアな図柄となるように、始めから終わりまでことばづかいも文意も明瞭な日本語表現を織りなすということです。ところどころ不自然な色や形をした部分がある、輪郭が曖昧だったり一部がぼやけていたりしてなにが描かれているのか判然としない。もしそのようなパズルがあったら不良品とみなされるでしょう。かなパズルも同じで、ことばづかいがへんてこだったり文意があやふやだったりしては、及第点に達しているとはいえません。
パズルを作る側から考えてみると、くまなく整った図柄を期してとり組むのが当然で、ピースを強引に組み合わせてデタラメな図柄を形作ったとしたら、パズルの目的が理解できていないことになるでしょう。かなパズルにも当てはまる道理です。
「かな」の「パズル」と聞けば、目指すべき日本語像が伝わりやすいですよね。
それでは、かなパズルの紹介を兼ねた本作の内容を見ながら、ちゃんと目標に到達できることをお示ししたいと思います。
まず、タイトルでもある初句「かな全部でパズル」が日本語のパングラムを表していることについてはもうよろしいでしょう。
つづく「骨折りヘコみ やつれゆく」では、作成の難しさを表現しました。「あ~ん全てのかなを過不足なく用いる」というシンプルなルールが与えられただけなのに、ふだんことばを使用するのとはまるで違った状況に置かれ、思うように文句を組み立てられません。あれやこれやと試行錯誤して「骨」を「折り」すなわち苦労をしても上手くいかないから、気落ちしすなわち「ヘコみ」、疲れ果てて「やつれゆく」。「やつれゆく」はもちろん比喩ですが、真剣にとり組んだ経験のある方はこの心情を深く実感されているでしょう。
それでも負けるものかと気持ちを奮い立たせ、たかがことば遊びなんだからニッコリ笑って臨みなさいと自分に発破をかけているのが、4句「負けぬよ笑え」になります。苦しい場面でこそリラックスした楽しい気分でいるよう努めることは、分野を問わず大切ですよね。
最後の3句「ひたむきに 一路目指そう 文字のアートを」の「ひたむきに 一路目指そう」は文字通り。ではなにを目指すのかといえば、整然とした日本語表現にほかなりません。そして、ことばの性質に反した厳しい条件下で間然するところがない詩文を描き出すことができたなら、それを「文字のアート」と呼んでも的外れではないはずです。なお、「文字のアート」は以前から用いていた言い回しで、「かな」「パズル」とともにはじめからキーワードに設定していました。
以上をまとめると、日本語のパングラムはかなをすべて用いたパズルである、その作成は難しい、でも諦めず楽しく挑むぞ、目標は文字のアートだ、となります。
いかがでしょう。ことばづかいに一字一句無理はなく、文意に関しても起承転結というのは大げさにせよ、ことば遊びの一種であるかなパズルに言及した、一貫性ある内容だとご納得いただけるのではないでしょうか。
かなパズルで第一に目指すのは、筋の卓抜した物語でも、彫琢の行き届いた詩でも、修辞の凝らされた歌でも、理路の透徹した論説でもありません。常識的なことばづかいで構成された、常識的に意味の理解できる常識的な日本語です。言うなれば日本語の基礎部分が問われていることになるでしょう。
したがって、母語話者――日本語に習熟した人――であれば、自他いずれの作品でもその出来をおおよそ客観的に評価することができるはずです。たとえば「ぼくに図書館へ行く」という一文は、誰が書いたかによらず文法的に誤っていると一目で判断できる。あるいは、「昨日は暴風雨だったから犬の散歩に出かけた」なら、一般的に考えて文意がねじれているとすぐに察せられる。これらはあまりにも分かりやすい例ですが、要するに見聞きして不自然に感じる部分がないかをひと通りチェックすればいいということです。
私はそのような認識のもと、いち母語話者としての自覚にもとづいて、この作品が自然な日本語であるとみなします。
とはいえ、難解なことば遊びであるがゆえ、気づかぬうちに自作をひいき目に見ている可能性もゼロではありません。批判的に吟味していただき、不審に思われる点がありましたら遠慮なくご指摘いただければ幸いです。
かなパズルは問答無用に難しい。作成中は苦悩の連続です。でも、試行錯誤のすえ、全てのかなが見事にかみ合って一点の曇りもない日本語表現が眼前に映し出されたときの不思議と感動は、ほかではなかなか味わえません。日本語はこのことば遊びに適した言語ですから、関心がおありならぜひ挑戦してみてください。50弱のかなで可能な組み合わせの数は膨大であり、まだまだいくらでも素敵な文字のアートが埋もれています。知恵を絞ってそれらを1つでも多く発掘し、悦びを分かち合おうではありませんか。
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