知恵・理路 比喩も確か

  • ゼノン・ソクラテス ヘーゲル・ポパー 知恵・理路 比喩も確か 行ない不滅 敬われ 世に見ぬ跡を 刻むね
  • ぜのんそくらてす へーげるぽぱー ちえりろひゆもたしか おこないふめつ うやまわれ よにみぬあとを きざむね
  • 古今の偉大な思想家・哲学者たち。ゼノンにソクラテス、ヘーゲル、ポパー。知恵や理路はむろん、用いる比喩もしっかりしている。業績は不滅で敬われ、世に見ぬ足跡を刻んだね。

古今の思想家・哲学者を挙げました。

余りやすいかなを含んだ人物を意識してピックアップしたため、ソクラテスからヘーゲルへと一気に時代が飛んでいたり、カール=ポパーは少し毛並みが違うのではないかなど、選定がまとまりなく感じられるかもしれません。そこは文字使用の制約が厳しいかなパズルということでご勘弁願えれば。

ポパー以外の3人の名前については、ゼノンのパラドクス、毒杯を仰いだソクラテス、弁証法のヘーゲルといったように、ほとんどの方がどこかしらで耳にしたことがあるのではないでしょうか。
彼らに比べて一般的な知名度は低いけれど、思想の世界ではポパーも著名な人物です。ほぼ20世紀を通して生き、科学哲学の分野で「反証可能性」という概念を提示しました。どんな理論であれ、それが科学的であることをうのならばつねに誤っている可能性を有していなければならない、というものです。たとえばある宗教家が「全ては神の恩寵だ」と標榜しているとして、いいことがあると「神の恩寵だ」と言い、悪いことがあっても上手い具合に論を展開して「神の恩寵だ」と言う。一事が万事その調子で、なんでも「神の恩寵だ」で説明する。こうなると、つねに正しいことになって批判のしようがありません。一見すると完璧な理論のように思えるものの、それってじつはなにも言っていないことと変わらない。つまりは内容がなくて役に立たないわけです。そのような主張は非科学的だとポパーは唱えました。私の説明はかなり雑ですが、反証可能性は科学と非科学とを線引きするうえでの有用な基準として認識されています。興味深い考えなので、ご存じがなくて関心をもたれた方はネットで検索されてみてください。

語法について。
当初この作品はもう少し違った組み立てで、6句目は「世も見ぬ跡を」だったのですが、「世も見ぬ」を慣用表現「世に(も)見ぬ」として用いたつもりながら、正しさに自信がもてませんでした。調べてみるとやはり間違いであると分かり、そうすると「に」が必要になります。ところが、「に」は「ニーチェ」で使っていました。つまり、最初にでき上がった状態では、ニーチェも含めて人物を5人挙げていたわけです。ニーチェは哲学者のなかでもっとも有名なうちの1人といえるでしょう。だからぜひとも採り入れたかったのです。
「ニーチェ」がボツになって “神は死んだ” とガッカリするも、作品はどうにかして完成させねばなりません。「ニーチェ」をしばし見つめていると、「に」を除いた「え、ち」で「知恵」ができることに気づき、当初の3句目「理路・比喩 確か」に組み込んでホッと一息。しかしながら、6句目は「世にも見ぬ跡を」でいいとして、今度は3句目の「知恵・理路・比喩 確か」が気になってくる。「理路・比喩 確か」なら自然なことばづかいでも、「知恵・理路・比喩 確か」と名詞をそのまま3つ並べてしまうとカタコトの日本語みたいになり、表現として不自然に感じられるからです。この辺りはネイティブ間でも意見の分かれる微妙なところかもしれませんが、私は納得ができません。そこで、「も」を6句目から3句目へ移動して「知恵・理路 比喩も確か」としました。こうすれば「知恵に理路、さらには比喩も」と滑らかな流れになりますよね。ということで、やっとこさっとこ完成にこぎ着けました。3句目が10字と長めになっているのは一連のやりくりのせいです。ふぅ。

かなパズルは全てのかなが有機的に連関しており、1字の配置換えが他の部分へ影響し、場合によっては芋づる式に波及して全面的な見直しを迫られます。その過程をちょっと詳しくお話しした今作は、一部の調整で済んだので助かりました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました