ピヨー

  • 抜ける青空 芽吹く山 清冽な川 鳥たちの声 峰には雪も シーンすべてを むさぼろう ピヨー
  • ぬけるあおぞら めぶくやま せいれつなかわ とりたちのこえ みねにはゆきも しーんすべてを むさぼろう ぴよー
  • 抜ける青空に芽吹く山、清冽な川や鳥たちの声、峰にはまだ雪も残っている。これら諸々のシーンすべてをむさぼるように楽しもう。ピヨー。おや、あの鳴き声はアオゲラだね。

自然の情景を描きました。

季節外れの内容にはなりますが、自作でベスト3に入る作品をご覧いただきます。
文章の組み立ても内容の質もことばづかいもかなパズルであることをまるで感じさせず、個人的には文句のつけどころがありません。
かなパズルを作る過程で挫折しかけることは毎回のようにあり、じっさいに断念することも。今回も何度も諦めかけたけれど、粘った甲斐がありました。大大大満足の出来です。
文語の「山聳え」に対する口語版のような位置付けであり、また上位版ともいえるでしょう。

作成について。
4句目までがおおよそできたところでピタリ止まってしまい、大いに難渋しました。さきほど述べたように ”さすがに今回はもうムリ” と何度もさじを投げかけながら、でもなにか可能性を感じていたので延々と試行錯誤。「むさぼろう」を見つけたのが動き出す契機に。
いくつか余った文字のなかに「ひ」と「よ」があり、なんとなく ”「ピヨー」と鳴く鳥っていたっけな” とネットで調べてみると、いました、アオゲラが(本文にイラストを挿入)。キツツキの仲間だそうですが、春に山で鳴くということなので1~5句の内容に見事に合致している。私が感じていた可能性はこれだったのでしょうか。
とにもかくにも完成したときの充実感は過去最高でした。

語法について。
1~4句目までは決まり文句のような自然な自然描写(!)ですよね。かなパズルという厳しい制約の課されたことば遊びでこれだけ組み込むことができたのはわれながらちょっと信じられない気分です。青空に山に川に鳥の声と、バランスも間然するところがない。
5句目「峰には雪も」にしても4句目までの時節に適っているし、「…には~も」という表現が列挙してきた情景をまとめる役割を果たしている。
7句目の「むさぼろう」は景色を味わう思いの強さをよく表せており、尾句「ピヨー」が作品を仕上げるとともに、のどかなニュアンスと余韻を加味します。
ええ、この作品に関しては自画自賛といわれてもかまいません。
ところで、カタカナ語の「シーン」は「映画のワンシーン」などと「(特定の)場面」というような意味合いで使われることが多いと思います。もちろんこの作品のように、自然の景色を表す場合にも使われます。いっぽう、ネットで調べてみるともとの「scene」は前者の使い方が主であり、「景色、風景」の意味もあるけれどあまり用いられないらしい。また自然の情景を表す場合にふつう使われる「scenery」が景色全体を指すのに対して、「scene」はある限られた景色を指すとのこと。そこで、これらを勘案してことばづかいをより明確にするため、この作品では1~5句の風景をひっくるめて一望するのではなく、空を見上げれば抜ける青空、山に目をやると新緑が芽吹き出している、川はといえば雪解けした水が加わり清冽な流れ、おや鳥たちの声が聴こえてくるぞ、峰にはまだ雪が残っているんだね、というように1つひとつのシーンを写真に収めるように切りとりながら楽しむ、というようにご理解いただければと思います。だから6句目の「シーンすべてを」も、「1つひとつのシーンをすべて」ということです。

かなパズルにおいて、本作品以上に自然の情景を描いた作品はあり得るでしょうか。もちろん可能性としてはあるでしょう。なにせかなパズルでは10の100乗以上という膨大な組み合わせが考えられますから。
でも明々白々にこれを超えるものはおいそれとないだろう、と評価したい。繰り返しになるけれど、自画自賛といわれてもかまいません。
とはいうものの、じっさいのところ自慢する気持ちなどはまったくありません。なにより作った私自身がのように驚いているのですから。

かなパズルでかな文字を組み合わせるのは自力による必然的な作業だけれど、そこには必ず偶然が作用します。これまでにも幾度かびっくりさせられる偶然を経験してきました。今回にしても「ピヨー」という鳴き声を想起したのが偶然なら、アオゲラがいたのも偶然。鳥についてはまるで疎く、このときネットで調べるまでアオゲラという存在もつゆ知らずだったのです。さらに季節がジャストフィットしていたのも偶然。この3つの偶然がすべてそろわなければこの作品が陽の目を見ることはありませんでした。
偶然の要素が入ってくるわけだから、どのような図柄になるか作り手にも最後まで読めません。だからいざ完成しても、自分一人の力で成し遂げたという意識が希薄になる。そんな不可思議なことば遊びであるがゆえに、日本語の一般性という客観的な観点から自作に出来がいいという判断を淡々と下すことはあっても、自慢だとか自惚れだとかいった気持ちは生じないのです。

必然と偶然が絶妙に絡み合うことで生成されるかなパズル。
でも偶然任せにしているだけではなにも起こりません。必然の、自力の部分を限界まで徹底して追求するからこそ、幸運をもたらす偶然が転がり込んでくる可能性が生まれる。己の力不足を含め、どれだけ努力しても報われないことだって当然あります。
決して容易くはないし残念な結果に終わることも少なくないけれど、ときに作り手が予想もしていないような作品が誕生してしまう、汲めども尽きない魅力をもつことば遊び。それがかなパズルです。

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