- 雲ぷかり 広い空へ 急な雨 私は濡れる ぽつねんと 街の声に 背を向けて さ、お休みよ
- くもぷかり ひろいそらへ きゅうなあめ わたしはぬれる ぽつねんと まちのこえに せをむけて さ、おやすみよ
雲がぷかりと広い空へ浮かび、急な雨が。私は濡れる、ぽつねんと。そんなときは街の喧噪に背を向けて、さあお休みよ。
詩であることを意識して作成した初の作品です。
記憶するかぎり、詩を書いたことは人生で1度もありません。詩でなにごとかを表現するという性向を自分のなかに微塵とも感じないし、詩を理解するのも苦手です。
かなパズルで詩的な作風になることはあっても、それはこのことば遊びの形式に導かれ結果としてそうなったもの。
でも、ということは、かなパズルの形式を利用すれば自分にも詩を自覚的に作ることができるかもしれない。
そんな思いを抱きつつ、やる気が冷めぬうちにと試みることにしました。
作成について。
金子みすゞの詩を読んでいて詩作の気分が高まったのが事の始まりです。
だから、とっかかりも金子みすゞの詩の雰囲気に身を委ねるように。するとほどなく「広いお空へ 雲ぷかり」と浮かんできました。しかし、それ以外はまったくの白紙です。そこでこの2句をキーワードに据え、あとは余った文字群とにらめっこしながら、詩であることだけを念頭に置き、自由連想に任せて進めていきました。
おもしろいのは、つづけざまに思いついた「背を向けて」でしょうか。一見するとさきの2句と組み合わせられそうにありません。けれど、なにか感じるところがある。このような予感はときに効果を発揮するので、とりあえずこれもキーワードに設定してみました。また、いつか使いたいと考えていた、余りやすい「ね、ほ」を含む「ぽつねんと」が活かせそうだと直感し、同じくキーワードに採用。
いろいろと苦慮しつつ、都合3時間ほどででき上がりました。最初に浮かんだ2つの句は少し形が変わったものの、キーワードを上手い具合にすべて採り入れることができたのはうれしいです。
内容と語法について。
当初、「雲ぷかり 広い空へ」はその通りに現実の事象を表すつもりだったのが、文脈の都合で比喩表現になりました。
詩といえば比喩を用いることがよくありますが、比喩を含めて詩のなかには、なにを言わんとしているのかを少なからぬ母語話者が明瞭に把握できないことばづかいがなされ、文意の全体像も見通しにくい作品があります。もちろんそれは意図的にであり、常識的でないことばの組み合わせ方によって定型的でない物事の捉え方を表現するためなのでしょう。
しかしながら、かなパズルの眼目はそれと正反対の、ふつうに理解できる意味内容に整えることです。あ~んのかな文字を過不足なく用いるという文字使用に厳しい制約の課されたこのことば遊びにあっては、ともするとことばづかいも文意もデタラメになり、「ふつう」を実現することこそがもっとも難しいのですから。曖昧・不明なことばづかいや文意をいかになくすかが作り手の腕の見せ所になるわけです。
そのため、かなパズルで詩を作ったり比喩を用いたりするなら、母語話者の大半が違和感なく受容できる突飛でない表現に収めるべきでしょう。加えて、解釈に異議が出そうな場合に説得力をもたせるには、ふだんのかなパズル作品が明快な日本語表現を織りなしていることも大切になります。そうでないと、整えられないがゆえの苦し紛れのこじつけとみなされるでしょう。
さて、1~5句は心のなかの比喩です。「広い空」である心に「雲」が「ぷかり」と出現し、「急な雨」が降って「私は濡れる」、「ぽつねんと」。
ここで表現したいのは、生活のなかでイヤなことが募って精神的にどんよりし、ある日それが一気に表出して落ち込む様子です。あるいは「私は濡れる」を涙に暮れることだとするのもいいでしょうか。また、序盤でキーワードに掲げていた、1人寂しいさまを意味する「ぽつねんと」はいかにも詩に向いたことばで、内容ともしっかり噛み合って使用することができました。
つづく6句目「街の声」も、現実的な街の喧噪やにぎやかさのことではないし、まして街頭インタビューの意見でもありません。そうではなく、落ち込んでいるときには鬱陶しく感じられる、社会生活のさまざまなわずらわしさの隠喩です。
したがって後半部分は、気落ちして精神的に疲弊したときはそういったもの「に 背を向けて」、「さ」あちょっと「お休み」しなさい「よ」、となります。
初めて挑んだ詩は、その大半が比喩で構成されることになりました。
詩の語句をいちいち具体的に説明するのは野暮なのかもしれません。でも、さきほどもお話ししたように、かなパズルということば遊びの性質に照らしたとき、牽強付会の内容でないと納得していただく必要があります。ですから、すべての語句に説明を付しました。
心の動きを天候に例えるのは詩に限らずおなじみの方法だし、街の喧噪は社会が活動している証といえるので、一連の比喩は無理のない穏当なものだろう、私はいち母語話者としてそう考えます。
いかがでしょうか。
五十音図のかな46文字で形作る、言語的に極めて束縛された条件だからこそ生み出される詩的な世界。
そんなかなパズルの力を借りた詩への挑戦は、思いのほか楽しいものでした。
かなパズルを作り出して以来、その魅力に大いにハマっているとはいえ、純粋に楽しいかと問われて楽天的にハイとは即答しがたいところがあります。作成にとりかかるまえは “ああ、これから苦難の時間が始まるな” と少しばかり憂鬱な気持ちになるし、じっさいに作成中は苦しみの連続です。いくら試行錯誤しても出口が見えてこないと腐した気分になってくる。
ところが、今回も袋小路に何度か迷い込んだし脳ミソもしっかり疲れたけれど、不思議とずっと明るい心持ちでした。詩にはおよそなじまないと思っていた自分が詩作している、という状況がおかしかったのかもしれません。
ただし、調子に乗って詩に意識が偏るとかなパズル作りに悪影響を及ぼしそう。ですから、その辺りのバランスに留意しながら、いずれまた機をつかまえてとり組んでみたいと思います。
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