意味のある文芸に

ことばの基本は意味が伝わることです。
とりわけパングラムではそれが求められます。

自然なことば

パングラムの目標は自然な日本語を織りなすことですが、自然な日本語とはことばづかいに無理がなく意味がきちんと通じること、つまり語法と文意が整っていることです。
換言すると、一般の母語話者がそれを見聞きして違和感を覚えない、不自然に感じないということになります。
さらに別の言い方をすれば、子どもや外国人学習者の手引きになるような内容ともいえるでしょう。
彼らにおかしな日本語を教えるわけにはいきませんから。
ただし、この点にかんしては1つの規範的な見方であって、現行の文法規則から逸脱しているものの子どもの誤りとは異なる「違くて」や「わかりみ」、あるいは日本語にかなり習熟した外国人でも理解しづらいくだけた言い回し、こういった表現を使用することはまったく問題ありません。
ことばの自然性は慣習および数の論理からなっており、一定数以上の人に認知され親しまれた用法であればパングラムでも有効です。
とまれかくまれ、「あ~ん全てのかなを過不足なく用いる」条件下では、語法と文意を穏当に両立させた表現-意味内容に仕立て上げることが難しいのでした。

語法<文意

では、パングラムにとり組むうえでまずなにを優先すべきかというと、それは文意です。
ことばというのはおおよその意味が――誤解があるとしても――伝わらなければ、それこそ意味がありません。
たとえば幼い子や日本語初学者との会話において、ことばづかいが拙くところどころ不自然でも、話題がはっきりして筋を見通せればこちらで補って解釈・理解できます。
カタコトが分かりやすい例でしょう。
しかし、脈絡なくことばを発せられたらいかんともしがたく、コミュニケーションそのものが成り立ちません。
要するに言語表現でいちばんに大切なのは、部分的なことより行間を含めた全体の流れやまとまりすなわち文意だということです。
そして、それはただでさえ内容が不明瞭になりやすいパングラムにあっていっそう当てはまります。
*
突然ですが、「言葉のサラダ」をご存じでしょうか。
精神医学上の概念で、統合失調症の人が常識では理解できないふうに語を連ねて書いたり話したりする場合の、文法的に正しくても支離滅裂な言辞のことです。
つぎのような説明がある病院のサイトでなされていました。

考えにまとまりがなく、一つの話題から全く別の関連性のない話題へ次々と話がとんだり、つじつまが合わないことをいったりすることがあります。
ひどくなると「ねこは大雨だからピクニックは4階の窓にスパゲッティ…」などと「言葉のサラダ」と呼ばれる、全く一貫性やまとまりのない言葉をつなげただけの意味の通らないことを言ったりすることがあります。

サラダの具材のごとくことばがごちゃ混ぜになった様子は、引用文中の例文に明らかでしょう。
ネットのSEO――検索エンジン最適化――にかんする用語「ワードサラダ」はその転用で、サイトが検索結果で上位に表示されるよう検索回数の多い語句を優先的に配列した文を作るため、頓珍漢な内容になることを指します(ただし自然言語処理能力が進歩した現在、この手法はかえって逆効果のようです)。
*
どうして「言葉のサラダ」に言及したかというと、パングラムでも類似した作品が散見されるからです。
「一貫性やまとまりのない言葉をつなげただけの意味の通らない」内容で、まっとうな日本語としての体をなしていません。
とくに問題なのは、語法――語同士のつながり――に難があることだけでなく、それにも増して文意――文同士のつながりから生まれる全体の意味――が適当でないことです。
分かりやすく語法には瑕疵のない例を挙げてみると、「昨日は火曜日だ。パソコンが壊れている。星のきらめき。あそこにコンビニが建つらしい」といった具合でしょうか。
「言葉のサラダ」になぞらえて「文のサラダ」と呼べるかもしれませんが、同様に「一貫性やまとまり」を欠いたツギハギのような並びで、まるで理解の得られる文意を構成していません。
パングラムの実例としては拙論「パングラムの現状」にて私が試作したものをご紹介しているので、よろしければそちらをご覧ください。
*
パングラム――や回文などのことば遊び――は、ことばの自由を奪う条件によって構造的に「言葉――文――のサラダ」化させやすくしているわけです。
ひと通り無難な日本語に整えることが容易でないのは、したがって当然の帰結でしょう。
ゆえにとり組むならばことばの性質を踏まえ、語法をいくらか犠牲にしてもいいから、また自分が目指したとおりの内容にならなくてもいいから、とりあえず文意がだいたい伝わるくらいには語句を整序するべく努めましょう、ということです。

意味のないことばの遊び

言語表現において文意が肝なのはしごく当たり前のことながら、パングラムのみならずことば遊び全般において軽視されていると見受けられ、気がかりです。
たとえば回文を閲覧していても、パッと見いい感じのようで、冷静に読むとじつは文意が通っていないことが少なくありません。
かな50弱と用いる字数が定まっているパングラムになると、整えるのがより困難というべきか、一読して文意の荒唐無稽なものが目立つといえるでしょう。
いずれにせよ、「あ~ん全てのかなを過不足なく用いる」や「頭と尻のどちらからでもかなの並びを同じくする」といった厄介な条件が与えられているとしても、それだけが原因ではないように思われます。
*
ふつうの詩歌や物語なら “これでは意味がきちんと通じない不自然な日本語だ” とみなすものが、どうしてことば遊びになるとあまり気にならなくなるのか。
それは「ことば遊びはフロンティア」でも述べたように、ことば遊びという前提があると作り手も読み手も捉え方が雑になり、日本語としての適否を判断する意識が損なわれてしまいがちなせいだと考えられます。
つまり “たかだかことば遊びなんだから細かいことなど気にしなくていい。なんとなくで十分だ” というおざなりな認識になるということです。
また、くまなく整えるのが複雑難解なこともあって “なんとなくで済ませてしまおう” という心理が生じやすいのは、パングラムのいち作り手としてよく理解できます。
いっぽう読み手の側に立ったとき、”なんとなく見た目がよければいい” という評価を下す気持ちも分からないではありません。
「ことば遊び」というネーミングにも、ぞんざいな捉え方を許容する余地があるのでしょう。
*
しかし各所で屡述してきたとおり、ことばづかいがおかしくなるよう意味が通じなくなるよう条件設定されたのがことば遊びであり、その意を汲めば目的も自ずと導かれるはずです。
そして、ことば遊びだからこそ作り手読み手ともに「なんとなく」という曖昧な態度を禁じ、語法を一字一句しっかり点検するのはもとより、それ以上に文意が適切であるかを吟味しなければならないのでした。
反対に、パングラムであれ回文であれ意味がろくに通じなくてもかまわないと考えてみてください。
語句を好き勝手に並べられるから、課された条件は条件としての制約機能を失い、それに伴ってことばを用いたパズルゲームとしての知的難度も霧消します。
たとえばつぎの回文は、本稿のキーワードである「意味」を必須に、回文の作成経験はほとんどない私が「なんとなく」かなを並べながら戯れに作ったものです(所要時間は7~8分)。
ダンスだ意味を見出すんだ。 語法に不備はなく、「なんとなく」読めば「なんとなく」文意が通っているように感じられるかもしれません。
じっさい特定のコンテクストに置かれれば、自然な意味内容として通用する可能性もあるでしょう。
しかしながら、単独ではどのような視点で語られているかが不明で、なにをいわんとしているかが伝わらない。
こういったものならその気にさえなれば母語話者は際限なく作れます。
とはいえ、意味をなさないと自覚しつつそのような語の連なりを生み出すことは、言語ゲームとしても頭脳ゲームとしても無意味な、つまり二重に意味のない行為といわねばなりません。
純然たる暇つぶしやふざけの場合を除いて、これではことば遊びの存在意義すらおぼつかないでしょう。

意味のあるパングラムに

改めて、ことばというのはなにをおいても意味の伝達が基本です。
ですからパングラムに臨む作り手は、まずもって文意を整えることに心を尽くしてください。
そして、読み手の方は文意がおおむね通っているかをさしあたりの評価基準とし、たほう語法に多少マズいところがあっても目をつぶって、厳しくも温かくご覧になってください。
そうした営みのなかで、ことば遊びとしての本質的な水準が上がっていきます。
ひいてはレベルがより高まり、文意はもちろん語法も隅々まで整って自然な詩文と認められる作品が増え、文芸の一分野に恥じぬ内容をそなえてことばの文化を豊かにすることは、大いに意味のあることではないでしょうか。
そのときは軌を一にして、日本語が蔵する言語力を再認識・再発見させる特徴を知らしめ、世上いろは歌で化石化しているパングラムの新生面が開かれるに違いありません。

※ 用語について、ほんらい「語法」と「文法」は異なるものですが、私は「語法」を「ことばづかい」の言い換えとして使うとともに、多く「文法」も含めた意味合いで使用しています。
本稿に限らず拙文をお読みになるさいは、この点をご了承ください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました